2013年10月3日木曜日

ボブホーナー


(1)「ベースボール」と「野球」は違う!(ボブ・ホーナーの衝撃)

私がこの言葉を初めて聞いたのは、1987年当時、ヤクルト・スワローズに在籍していた助っ人外人である「赤鬼」こと、ボブ・ホーナーからであった。

(来歴)
【ブレーブス時代】
1978年のMLBドラフトでアトランタ・ブレーブスより全米1位指名を受け、いきなりメジャーデビューした。
(メジャーリーガーのマイナー経験年数の平均は約7年。つまりほとんどのメジャーの選手は約7年かけてマイナーからメジャーに這い上がってくる。)

89試合出場で打率.266、23本塁打、66打点を記録し、オジー・スミスらを抑えて新人王を獲得する。

1979年、1980年、1982年も30本塁打以上を記録し、ブレーブスの4番打者として成績を重ねた。

1986年7月6日の対モントリオール・エクスポズ戦で、メジャー史上11人目の1試合4本塁打を達成。

同年オフにFA宣言したが、年俸高騰により各球団のオーナーが示し合わせ、FA選手を締め出したためどこの球団とも契約できなかった。


【ヤクルト時代】
浪人寸前のところを1987年4月13日に関根潤三率いるヤクルトスワローズへの入団内定。

ヤクルトでのデビュー戦で来日第3打席で1号2ラン本塁打。

翌6日の2戦目では3本のソロ本塁打を放った。

5月7日の3試合目は敬遠策をとられ、無安打。

5月9日の4試合目は、第1打席で5号ソロ、6回の第3打席で6号ソロ本塁打を放ち、

4試合で11打数7安打、本塁打6のデビューを飾り、黒船級の「ホーナー旋風」を巻き起こした。


【カージナルス時代】
同年オフ、ヤクルトは翌1988年もホーナーと契約すべく、3年間で総額15億円と当時では破格の条件を提示(この年、ロッテから中日へ移籍した落合博満の日本人最高年俸が1億3千万円の時代)。

ホーナー側とほぼ合意した。ところがその後、ホーナーはヤクルトとの契約を白紙化し、ジャック・クラークをFA(ニューヨーク・ヤンキースに移籍)で失い、クラークに代わる四番打者の補強を急務としていたセントルイス・カージナルスと1年間総額わずか約1億円(当時)の契約で合意し入団した。

ヤクルト退団後のカージナルスのキャンプでのホーナーの様子がスポーツ番組で放送され、コメンテーターとして参加していたある日本プロ野球OBは「ホーナー、日本にいた時と違って、体絞ってますね。お腹も
出てないし、何より目つきが違う」とコメント。

いかに日本のプロ野球を舐めていたか、そして腹が出た状態でホームランを打ちまくった実力は何なんだ!

これがメジャーと日本の格差か!!と野球ファンでもない私も愕然としたものである。

そして、後に「地球の裏側に、ベースボールとは言えないもう一つベースボール(野球)があった。」という旨の発言をインタビューアに答えており、

『地球のウラ側にもうひとつの違う野球(ベースボール)があった』
安西達夫訳(日之出出版, 1988年3月) ISBN 4891980613

という書籍も執筆している。



「野球道」の再定義による 日本野球界のさらなる発展策に関する研究



「野球道」の再定義による 日本野球界のさらなる発展策に関する研究
 
  トップスポーツマネジメントコース5009A307-3 桑田 真澄 研究指導教員:平田 竹男 教授Ⅰ.
 
序論 筆者は日本のプロ野球および米国メジャーリーグの選手として23年もの長期にわたって現役生活を続ける
 
幸運に恵まれた。現役生活から退いた今、プロ・アマを問わずわが国の野球選手を取り巻く環境を整備すること
 
で、野球界への恩返しをしたいと考えた。近年、プロ野球の人気低下が叫ばれている。実際に巨人戦の地上波放
 
送試合数は激減しており、「観るスポーツ」としてのプロ野球の人気は以前と比べて低下傾向にある。しかし、
 
「プレーするスポーツ」としてのアマチュア野球は現在でも根強い人気を誇っており、少子化の中で中学生と高
 
校生の野球人口は近年増加している。将来の野球界を支えるのは、現在アマチュア野球界でプレーする若い選手
 
たちであり、そうした「金の卵」たちが次世代の野球界を支える存在へと成長させるためには、プロとして活躍
 
しうる選手の育成のみならず、あらゆる分野の第一線で活躍できる人間性豊かな人材に育成する必要がある。今
 
日の野球界は数多くの問題点が指摘されている。それは、プロのみならず、アマチュア野球界も同様である。
 
しかし、本来主役であるはずの選手が、現場で起きている問題を提起することは皆無に等しかった。
 
そこで、本研究では選手の視点を含めながら、野球界の抱える問題点、特にアマチュア野球界の抱える問題点を中心に検討することとする。
 
 
Ⅱ.目的
 
 本研究の目的は、わが国のアマチュア野球界が抱える問題点を理念レベルから再検討し、野球界全体のさらな
る発展に向けた提言を行うことである。
 
Ⅲ.研究手法 本研究では研究目的を達成すべく2つの分析を行う。
 
1.日本野球界の歴史に関する文献・インタビュー調査日本野球界の歴史を、文献調査やインタビュー等を元に分析する。武士的野球(精神野球や根性野球)の源流を探ることを目的として、野球界の根底に存在する理念を探る。
 
2.プロ野球選手に対するアンケート調査プロ野球選手に対して、中学時代、高校時代、大学時代の練習時間や練習の効率性、指導者の指導法などを切り口とし、それぞれの実態と、どのような感想を抱いてきたかを調査した。この調査によって、日本野球界の最高峰であるプロ野球の選手が、アマチュア時代に受けてきた指導の問題点を抽出する。
また、選手のセカンドキャリアや、野球界の改革に対しての意識についても調査する。
 
 
Ⅳ.研究結果 野球界の歴史を分析した結果、武士的野球(精神野球や根性野球)といった概念は戦前から存在し、特に飛田穂洲の提唱した「野球道」の理念が戦後まで受け継がれていることがわかった。
 
また、飛田穂洲の「野球道」は政府・軍部の圧力から野球を守るためのものであり、戦後、アマ球界の独立性を維持するため、その精神が学生野球憲章に継承されたであろうということが明らかになった。
 
 
次にプロ野球選手に対するアンケート調査結果を分析し、プロ野球選手が中学生、高校生、大学生時代に受けてきた指導における問題点を抽出した。
 
結果として、長すぎる練習時間、非効率的かつ非合理的な練習、体罰の多さ、故障防止への意識の低さと故障選手に対するプレーの強要などの問題点が浮き彫りになった。
 
 
また、多くの選手がプロ・アマ両方を含めた野球界改革の必要性を感じていることがわかった。
 
 
Ⅴ.考察歴史分析の結果から、戦前から現代まで野球界に脈々と受け継がれてきている飛田穂洲の「野球道」は、「練習量の重視」「精神の鍛錬」「絶対服従」の三点に集約されることを述べた。また、飛田は戦中の野球害毒論から野球を守るためにこの「野球道」を提唱した可能性が高く、時代の変化に合わせて、「野球道」の理念を再定義することが必要ではないかという考察を行った。
 
プロ野球選手に対するアンケート結果の考察として、2つの主張を展開した。一つは、非効率的かつ非合理的な練習や体罰の多さなどは改善していくべきものであり、これらがいまだに残っている背景には、野球界に共通する理念が根強く存在しているのではないかという考察である。
 
また、故障防止への意識の低さと故障選手に対するプレーの強要などの問題点も浮き彫りになっており、これらの問題点の背景には、それぞれのカテゴリーで「勝利至上主義」が追求されすぎており、選手を「育成」するという概念が欠けているのではないかという考察を行った。そこで、本研究のまとめとして、現代の時代背景に照らし合わせて、「野球道」を新しく定義した。
 
「練習量の重視」を「練習の質の重視(science)」、「精神の鍛錬」を、「心の調和(balance)」、「絶対服従」を、「自分と他者の尊重(respect)」と置き換え、飛田穂洲が提唱した「野球道」の根底にある「武士道精神」の変わりとなる理念として、「スポーツマンシップ」を置いた。(図1)以上の理念をアマチュア野球界、そして野球界全体で共有することで、たとえトップ選手になれなくても、社会に有用な人材となって末永く野球界を支援してくれる人の輪が広がり、野球界のさらなる発展へと寄与できるのではないかと考えられる。
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川淵三郎 来歴


川淵三郎 来歴

1936年大阪府生まれ。元日本代表監督、Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会前会長。現・日本サッカー協会名誉会長。三国丘高校から早稲田大学を経て、古河電工へ。日本代表として東京五輪に出場。アルゼンチン戦でゴールを挙げる。代表通算68試合、18得点を残し、70年に現役を引退。古河電工サッカー部コーチ、監督を経て、76年、日本サッカーリーグ常任運営委員に。80年にはロス五輪強化部長、その後日本代表監督に。88年、古河産業へ出向。同じ年、JSL総務主事に。日本サッカーのプロ化および発展に寄与し続ける。

スポーツシューレ01

ドイツでのインパクト、社会人としての将来
川淵青年を含む日本代表一行がやってきたのは、ドイツ西部の工業都市・デュースブルグ。スポーツシューレという、複合的なスポーツ施設だった。

「信じられないぐらい充実してるんだよ。ドイツだって日本と同じように戦争に負けた国なのにね」

見事に整備された芝生のグラウンドが何面もあり、体育館、トレーニングルーム、食堂や宿泊施設まで完備。

「僕の記憶では、当時すでに車イスで乗れるバスがあった気がする。体育館では彼らが車イスでバレーみたいなスポーツをやっていた。すごく衝撃的だった。当時の日本では、障害者すらあまり見たことがなかったからね。障害を持つ人はほとんど出歩かないのが当たり前だったから。そんな時代に、ドイツではスポーツまでしてるんだよ。スポーツを楽しみたいと思うすべての人にきちんと応える社会がある。僕は、100年という単位が好きなんだけど(笑)…100年たっても日本はこんな国に追いつかないなって思った」


李 國秀

李 國秀
名前
カタカナ リ クニヒデ
ラテン文字 LEE kook-Soo
ハングル 이국수
基本情報
国籍 韓国
生年月日 1957年4月25日(56歳)
出身地 神奈川県横浜市
身長 173cm
体重 68kg
選手情報
ポジション MF
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
李 國秀(り くにひで、이국수、イ・グッス1957年4月25日 - )は、神奈川県横浜市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。在日韓国人二世。
目次  [非表示] 
1 来歴
2 選手歴
3 個人成績
4 指導歴
5 参考文献
6 外部リンク
来歴[編集]

現役時代は攻撃的MFとして読売クラブなどで活躍。在日韓国人だが「韓国のプレースタイルは自分に合わない、だから香港でプレーした」と語るように、指導者としてもショートパスを中心とした技術重視のサッカーを志向する。
横浜トライスター、桐蔭学園高校サッカー部での指導を経て1999年からはヴェルディ川崎の「総監督」に就く。ヴェルディでは監督を松永英機、張外龍が務めたが、実質的な指揮は李が執っていた。これは李が日本サッカー協会のS級ライセンスを持っていないための措置だった。
ヴェルディでは林健太郎、米山篤志、山田卓也、小林慶行など桐蔭時代の教え子らを中心としてチームを組み立て、1999年1部1stステージには周囲の予想を覆して2位につけた。その年に行われた第79回・天皇杯全日本サッカー選手権大会ではベスト4に進んだが、準決勝のサンフレッチェ広島戦で敗れた後で主審を中傷する発言をしたとして、2000年のJ1の最初の数試合ベンチ入り禁止の処分を受けた。李は2000年シーズン終了と共にヴェルディを退団。翌年からヴェルディは東京都に移転したため、「ヴェルディ川崎」としては最後の指揮官となった。
その後は読売新聞を中心にサッカーに関する評論活動をしながら、2003年に神奈川県厚木市に開場したフットサル場「エルジェイ・サッカーパーク」の経営、及び同施設での指導を行っている。2005年にはB級ライセンスを取得したが、Jリーグでの指導より少年選手・指導者の育成を重視している。
選手歴[編集]

東京韓国学園
読売クラブ 1973-1976
キャロライナヒルフットボールクラブ(香港)1976-1977
横浜トライスターサッカークラブ/全日空横浜サッカークラブ 1981-1987
個人成績[編集]

日本国内成績
国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1973 読売 JSL2部 -
1974 読売 JSL2部 -
1975 読売 17 JSL2部 13 1 -
1976 読売 JSL2部
1981 横浜トライスター 神奈川県1部 -
1982 横浜トライスター 関東 -
1983 横浜トライスター 関東 -
1984 全日空横浜 JSL2部
1985 全日空横浜 JSL1部 19 0
1986 全日空横浜 JSL2部
1987 全日空横浜 JSL2部
通算 日本 JSL1部 19 0
日本 JSL2部
総通算
指導歴[編集]

横浜トライスターサッカークラブ助監督 1981-1987
桐蔭学園高校サッカー部監督 1987-
ヴェルディ川崎総監督 1999-2000
清水商業高校臨時コーチ
鹿児島実業高校臨時コーチ
参考文献[編集]

『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
外部リンク[編集]

Lee's Words 李国秀オフィシャルブログ
エルジェイ・サッカーパーク
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表・話・編・歴
東京ヴェルディ及びその前身チーム歴代監督
カテゴリ: 韓国のサッカー選手読売サッカークラブの選手全日空横浜クラブの選手日本のサッカー指導者東京ヴェルディの監督高校サッカー指導者在日韓国・朝鮮人のサッカー選手横浜市出身の人物1957年生存命人物