(1)「ベースボール」と「野球」は違う!(ボブ・ホーナーの衝撃)
私がこの言葉を初めて聞いたのは、1987年当時、ヤクルト・スワローズに在籍していた助っ人外人である「赤鬼」こと、ボブ・ホーナーからであった。
(来歴)
【ブレーブス時代】
1978年のMLBドラフトでアトランタ・ブレーブスより全米1位指名を受け、いきなりメジャーデビューした。
(メジャーリーガーのマイナー経験年数の平均は約7年。つまりほとんどのメジャーの選手は約7年かけてマイナーからメジャーに這い上がってくる。)
89試合出場で打率.266、23本塁打、66打点を記録し、オジー・スミスらを抑えて新人王を獲得する。
1979年、1980年、1982年も30本塁打以上を記録し、ブレーブスの4番打者として成績を重ねた。
1986年7月6日の対モントリオール・エクスポズ戦で、メジャー史上11人目の1試合4本塁打を達成。
同年オフにFA宣言したが、年俸高騰により各球団のオーナーが示し合わせ、FA選手を締め出したためどこの球団とも契約できなかった。
【ヤクルト時代】
浪人寸前のところを1987年4月13日に関根潤三率いるヤクルトスワローズへの入団内定。
ヤクルトでのデビュー戦で来日第3打席で1号2ラン本塁打。
翌6日の2戦目では3本のソロ本塁打を放った。
5月7日の3試合目は敬遠策をとられ、無安打。
5月9日の4試合目は、第1打席で5号ソロ、6回の第3打席で6号ソロ本塁打を放ち、
4試合で11打数7安打、本塁打6のデビューを飾り、黒船級の「ホーナー旋風」を巻き起こした。
【カージナルス時代】
同年オフ、ヤクルトは翌1988年もホーナーと契約すべく、3年間で総額15億円と当時では破格の条件を提示(この年、ロッテから中日へ移籍した落合博満の日本人最高年俸が1億3千万円の時代)。
ホーナー側とほぼ合意した。ところがその後、ホーナーはヤクルトとの契約を白紙化し、ジャック・クラークをFA(ニューヨーク・ヤンキースに移籍)で失い、クラークに代わる四番打者の補強を急務としていたセントルイス・カージナルスと1年間総額わずか約1億円(当時)の契約で合意し入団した。
ヤクルト退団後のカージナルスのキャンプでのホーナーの様子がスポーツ番組で放送され、コメンテーターとして参加していたある日本プロ野球OBは「ホーナー、日本にいた時と違って、体絞ってますね。お腹も
出てないし、何より目つきが違う」とコメント。
いかに日本のプロ野球を舐めていたか、そして腹が出た状態でホームランを打ちまくった実力は何なんだ!
これがメジャーと日本の格差か!!と野球ファンでもない私も愕然としたものである。
そして、後に「地球の裏側に、ベースボールとは言えないもう一つベースボール(野球)があった。」という旨の発言をインタビューアに答えており、
『地球のウラ側にもうひとつの違う野球(ベースボール)があった』
安西達夫訳(日之出出版, 1988年3月) ISBN 4891980613
という書籍も執筆している。